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菫の人 福元猛寛

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サイドストーリー (つぶやきの棚 こぼれ話) 2003/05/20
 すみれ散策の旅に出かけて、丸一日雨となったので、松本市街地にある「あがたの森公園」を歩いてみました。
 あがたの森文化会館に旧制松本高等学校の資料が展示されています。建物の中に入って展示物を見るのは久しぶりのことで、記録を見ると前回は1988年の夏でした。松高のような旧制高校には少し思い入れがあるのかも知れません。
あがたの森(旧制松本高等学校の遺構)  ヒマラヤスギの木立に囲まれた印象的な木造の校舎跡は「あがたの森文化会館」として利用されています。下の小さい写真2枚は1988年に撮影したものですが、建物の外観は現在の方が良く整備されていてキレイですね。展示も同様に近代的でスッキリとしていました。ただ、ここの学生気質は決してスマートなものではなかったのです。

 バンカラなどという古い言葉があります。吉田拓郎さんが作詞・作曲をして、かまやつひろしさんが独特の歌いまわしでヒットとなった「我が好き友よ」によって少し知られたのですが、その後、また死後になってしまったような本当に古い言葉です。
 この学舎には、破帽、詰め襟、腰に手ぬぐいをした不思議な身なりの学生たちが、下駄を鳴らして闊歩していた時代がありました。旧制高校という教育機関は1950年まで存在したそうですが、こうした学生気質がいつまで続いていたのかについては存じ上げていません。
あがたの森(旧制松本高等学校の遺構) あがたの森(旧制松本高等学校の遺構)
 少し思い入れがあるという理由ですが、もっともっと後の時代、昭和が終わろうとする頃のこと。私自身、破帽をかぶり、手ぬぐいを腰にぶら下げて、下駄を鳴らして歩いていたことにあります。
 映画のロケでエキストラに動員されていた訳ではありません(笑)。そんな学生気質を持つ新制高校が過去に存在して、残念ながら、現在は絶滅してしまったそうです。
あがたの森(旧制松本高等学校の遺構)  その新制高校の話は、私の甘酸っぱい青春なるものの主要要素の一つですが、今は横に置いて、本題の旧制松本高等学校に、当時、福元猛寛さん(1921~1945)という学生が在籍していました。

 彼は理乙、つまり理系の学生として過ごすのですが、無類のすみれ好きであったようで、展示パネルの記載によりますと『時間さえあれば(あるいは授業をサボって?)美ヶ原でスミレを採集していた』と記されています。
 当時、指導教官だった植物学の宮地数千木(やちぎ)教授(後に教頭)の回想記録には、
 『福元は実に「菫の人」である。わが研究室にたびたび来た。来ればスミレの話だ。そして彼はスミレの珍種を発見した。それを私は「ヤマベスミレ」と命名した。』
と記載されているそうです。そのヤマベスミレについて、その宮地教授は、
 『昭和14年に山辺村三城(さんしろ)で発見されたすみれで、当時松本高等学校理科生徒であった福元猛寛君が採集したものである。その後私もそのすみれを捜しにいったことがあったが、遂に見つけることができなかった。』
と回想した旨が記載されていました。

 福元さんは、ここを昭和17年に卒業、その後は東京帝国大学農学部に進学したのですが、時代は戦時体制にあり、戦況の悪化を憂いた彼は志願して海軍に入隊、海軍予備学生となります。彼の没年は1945年。この年で想像できる通り、彼は終戦の年に戦死することになります。
 現在も記録に残っていますが、彼は機動性の高い機体で知られる艦上爆撃機「彗星」の偵察員として、神風特別攻撃隊第三御盾隊(二五二部隊)に所属、その年の春、鹿児島県の海軍第一国分基地を発進して米機動部隊を攻撃、奄美沖で散って行きました。第三御盾隊の構成から推察すると、指揮官機に乗務していたものと思われます。
イソスミレ イソスミレ
 因みに破帽、詰め襟、下駄履き姿とは、こんなスタイルです。

 私の高校時代の個人的経験ですと、実際にマントは既に珍しい存在であり、手に入るたとすれば稀、困難でした。また、高価な朴製の下駄を買う余裕はありませんでしたね。

 校舎についても、やはり、こんな木造でした。広い敷地に校舎棟が並び、渡り廊下で繋がっていましたので、結果として中庭の多い構造です。
 学生数が多く、もっともっと大規模な校舎でした。各教室には薪ストーブがあって、パンを焼くのには好都合でしたね(笑)。
 繰り返しになりますが、旧制高等学校は1950年になくなっています。私の個人的経験は1970年代後半のお話です。
サイドストーリー
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