ふるさと岩谷堂は伊達藩に属する城下町
旧岩谷堂共立病院(ここは岩谷堂幼稚園ひまわり組であったこともありました)
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(何年振りなのか、ふるさとを再探訪してみることにした)
岩手県は南部藩というイメージが強いことは事実ですが、ここ岩谷堂は伊達藩。伊達宗規などの地領として栄え、岩谷堂伊達氏と称されました。
赤いとんがり屋根の建物は、戦後のラジオドラマ菊田一夫原作『鐘の鳴る丘』のモチーフになったと言われている旧岩谷堂共立病院です。閉院後、磐井治安裁判所岩谷堂支所(兼登記所)、岩谷堂尋常小学校の仮校舎、岩谷堂町役場、江刺町役場、江刺市役所などなど、いろいろな用途に使用されました。
私に言わせれば、岩谷堂幼稚園ひまわり組の部屋でしたね。ゆり組だったので、余り出入りすることはなかった空間です。
岩谷堂が商業都市であった所以は、この人首川(ひとかべがわ)の開運にあります。また、この川を遡っていく街道など、各地へつながる交通の要衝という地の利もありました。
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旧岩谷堂共立病院(岩谷堂幼稚園)の裏側にあった神社、ここに多聞寺があったとは少し意外でした。今ではマイナーになってしまった「岩谷堂音頭」に『花の多聞寺真っ赤に染めて、向山から火が昇る』という歌詞があります。明治5年の火災で焼けてしまったという多聞寺は、もっと大掛かりな伽藍であったのだろうと子供心に思っていたのです。
この多聞寺には、悲劇の名将・源九郎判官義経の伝説が残っています。兄頼朝に追われ、文治5年(1189年)に平泉の高館で自刃したとみせて、実は、ひそかに平泉を脱出して北をめざして旅立ったという「義経北行伝説」のスタート地点に当たります。脱出した義経主従は、途中、多聞寺に投宿したと伝えられています。