サラリーマンもやっていました
最初10年の仕事はシステム・エンジニア
これでも、四半世紀、サラリーマンとして過ごしていました。大学を出て、こじんまりとした商社に入社。営業として世界を飛び回るつもりでいたのです。ところが、3ヶ月間にも及ぶ新人研修を終えて、発表された配属先は「財務部電算課」。へっ、なんですか、そこ?!要するにコンピュータ部門、後の情報システム部でした。
なぜ、そんなことになったの?大学で情報システムの勉強してたワケ?と、多くの方に問われたことがありました。いえいえ、とんでもないことです。コンピュータと言えば、当時流行った富士通のFM7でBASICをチクチク入力して遊んだことがあった程度でした。それはKORGの初期型シンセサイザーで音を出して喜んでいた時代の話で、せいぜい、雑誌を読みながらゲームを作り、皆がROMと間違って呼んでいたカセット・テープに記録していた時代でした。一種の流行り、遊びですよ。
おそらく、研修の一部として、実際に動くプログラムができてしまったことが発端なのだろうと思います。ついつい、遊び心が刺激されていじくっているうちに「受取手形残高一覧表」ができてしまいました(その後、このプログラムは正式採用・・・、笑えない)。22名が幾つかのチームに分かれていたので、他チームの状況は分からなかったのですが、プログラムとして完成したのはレア・ケースだったのかも知れません。研修が適正テストだった訳ではないので、おかしな話だなぁと、今でも思っています。偶然、完成しただけかも知れず、単に興味が湧いただけだったのは事実ですから。
営業一部に配属されるという裏ネタが耳に届いていたので、内心、ウキウキとしていました。ところが、配属発表の日に総務部長の口から出た部門の名前は「財務部電算課」。その瞬間を見ていた先輩に言わせると、私はものすごく困惑した顔をしていたのだそうです。
そりゃあ、そうですね。財務部!電算課?!なんですか、それ・・・ですよね。
[写真] ソーホーで恥ずかしそうに撮影(一応、軽くマスキング処理しています)
まぁ、それでも命令は命令。気を取り直して、電算課に机を置き、最初はキィ・パンチャーとオペレーター半々で、情報処理の一部を担当していました。つまり、新しい商品の登録票が回ってくると、JIS日本語キィ・ボードのカタカナ入力で商品名を打ち込むというような仕事です。当時はフロッピー・ディスクさえ、まだ一般流通していませんでしたので、紙テープさん孔(鑽孔=穴を開ける)装置に記録するものでした。実は、データだけではなく、プログラムも紙テープに記録されていて、実行直前に読み込ませて、コンパイル(ヒトが判読できるコードから中間機械語に翻訳変換すること)後、リンケージ・エディターで実行可能プログラムに更に変換して、プログラムを実行する。そして、保存することなく消してしまうというステップだったのです。ちょっと、分かり難い話でしょうが、希少な記憶領域を節約するための工夫だったのです。(中略)
この時期は平和な時間だったと思います。ところが、2年目になると、先輩のSEが香港転勤となり、急遽、その後釜になれとのお達し・・・。少しだけ遊びの延長のような印刷系プログラムを作ることはあったのですが、いきなり、インターラクティブ系、つまり、会話型のオンライン・プログラムを作れというのです。そこから、地獄の日々が続くことになります。
山と積まれたマニュアルを読ませられました。1ページ読むのにも苦労するのに・・・。先輩の鬼のような講義とマニュアル読破と、テストプログラム作りの日々。正直言って、2ヶ月目で音を上げました。「師匠、待って下さい。さっぱり頭の整理ができません!」と泣き言を言ったことを、今でも鮮明に覚えています。気持ち悪くなって、吐きながら勉強をしていました。
そして、師匠は香港へ。キィ・パンチャーもオペレーターの仕事も取り上げられて、ひたすらプログラミングの日々・・・。でも、鬼の師匠のレベルが極めて高かったので、おそらく当時の環境から見れば異質というか、異次元の仕事をしていたようです。例えば、私たちが作るプログラムを先輩のプログラマーたちは読み下すことができないと言っていました。ストラクチャード・プログラミング云々という詳細は省略しますが、たまたま時代の端境期であり、それが他より早く訪れていたのだろうと理解しています。(またまた、中略)
写真はニュー・ヨークです。隣のニュー・ジャージー州にあった米国現地法人が汎用コンピュータを導入する際にフォローを仰せつかったということでした。しかしながら、突然のドタバタ海外出張で、事前に帰る日程が決まっていませんでした。長女が生まれたばかりの時期だったので、心配で心配で・・・。実は、結果として出張期間は一月半に及び、その間、休日は二日間だけ!必死で責務を全うしたかなぁと、現地時間の真夜中に本社に電話したところ、「では、明日、帰国しろ」とのこと(呆然)。友達になった現地スタッフとお別れもできず、帰路につく。モウレツ・サラリーマンの悲しさですね。家に戻ると、庭が草ぼうぼう状態で、結構厳しかったのだろうな!と思いました。
最も、少しは楽しむことができたのです。2日間の休みの一日で、マンハッタンの端まで出掛けてみたという訳でした。まだ、ワールド・トレード・センター(世界貿易センター)のツゥインビルが健在。Aトレインで行こう!のAトレインに乗車したつもりだったのにハーレムの真っ暗な駅に停車して、大きな外人(笑)がツカツカと目の前にやって来てドキっ。タバコ頂戴という仕草だったので、へへぇ〜と差し出しました。それから、ハドソン川を越えてニュー・ジャージーに戻るつもりで、全く逆のブロンクスにたどり着いたり・・・。完全なお上りさんだったのでしょうね。その証に、優しそうなおじさんに声をかけられて、肩のバッグを幼児園時のように袈裟懸けに懸けるように教えてもらいました。それじゃあ、ひったくりに遭うぞ!という意味だったのでしょう。
この話はキリがなさそうですので、この辺で、一度締めておきましょうね。