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幻のクロモリタチツボスミレ

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サイドストーリー (つぶやきの棚 こぼれ話) 2013/11/15
 我が故郷である岩手県にもアイヌタチツボスミレが咲くということですが、これは青森県のお話です。
アイヌタチツボスミレ  アイヌタチツボスミレというと北海道のすみれというイメージです。実際、まだ北海道でしか観察できていないのですが、岩手県の自生地が実家から近いことがわかりましたので、近々、出掛けてみたいと思っています。すると、当然のように青森県にも自生していることは想像に難くありません。

 アイヌタチツボスミレはクロモリタチツボスミレとして発表されたことがあります。青森県の郷土史家である佐藤耕次郎氏(以降、雅号の「雨山」と記す)が、雑誌『園芸の友』に仮称として発表したものでした。その後、中井猛之進博士が『植物学雑誌』にミチノクスミレ( Viola mutsuensis W. Becker)として発表しています。学名の命名者はベッカーですね。

 このミチノクは「陸奥」に違いないでしょう。ではクロモリの方は?これは「黒森山(青森県黒石市、標高606m)」で良さそうです。黒森山という名前は各地にあり、青森県内にもむつ市や三戸郡にあるようです。
 参考に過ぎませんが、源義経北行伝説に由来地に多く、岩手県宮古市の黒森山は『九郎(判官)森』として知られています。
 学名が Viola mutsuensis なら、むつ市ではないだろうかと連想しそうなものですが、雨山は黒石の人なのですね。
アイヌタチツボスミレ  雨山は明治26(1893)年の生まれで、南津軽郡立農業学校で学んでいます。家族揃って植物好きだったようで、父親と兄はりんご栽培の研究をしていました。一方、雨山は山野を歩き、植物観察と採集に明け暮れていたようです。標本を作り、写生して図譜をまとめていました。植物分類学を学んだという訳ではないのだそうですが、深い学識を持ち合わせ、探求にのめり込んだようです。当然ですが、家業は疎かになってしまいました。

 生家は近江商人の流れをくむ呉服と金物商で、屋号はヤマウでした。このヤマを山、ウを雨と記して、ひっくり返したのが雨山の雅号という訳です。文字通り、身上を潰してひっくり返しちゃったので、洒落にならないかも知れませんね。

 雨山は手元の「日本植物図鑑」で判明できない植物に出逢うと、その著者であった牧野富太郎博士のところに出掛けて教えを請うたとされています。その過程で見出したのがクロモリタチツボスミレ、後のミチノクスミレ、つまり、現在のアイヌタチツボスミレでした。
テリハタチツボスミレ  発表は雨山が先だったらしいので、標準和名はクロモリタチツボスミレとなっても良さそうなものですね。
 ところが、青森で布教活動をしていた植物採集家のジャン・ウルバン・フォリー(1847~1915)神父という存在がポイントです。神父は日本を中心に北方の島や台湾など各地で採集した植物標本をヨーロッパの博物館や学者に送りました。その植物標本を基準標本として各国の学者が発表した植物(新種)は約7百種に達するとのことです。
 日本で植物分類学の下地ができて、新種として発表された時点で、実はフォリー神父が既に採集しており、海外で発表されていたというケースが少くなかったと言われます。
 フォリー神父の功績は大きく、高く評価されていたということです。学名としても幾つかの種に献名されており、スミレ科ではテリハタチツボスミレ( Viola Faurieana W. Becker )が 実例となるでしょう。
キバナノコマノツメ  雨山のストーリーに戻ります。雨山は幼少の頃から、おどけてみせる性格だったらしく、母親におもしろいと言われていたそうです。その広く慕われる人柄から、まみし村の村長に任命されたというエピソードなどが残っているようですが、主題との繋がりがありませんので、残念ながら、ここでは省略しておきます。
 67歳で他界します。晩年に活動を共にした黒石郷土史研究会と黒石文学連絡協議会の仲間たちが、黒森山の浄仙寺(黒石市)境内に文学碑(詩碑)を1966年5月に建立していますので、その碑文を紹介しましょう。
         キバナノコマノツメ
                    雨山
    翡翠を刻んだ品のよい葉
    エメラルドのような
    黄玉をちりばめた美しい可憐な花びら
    全く宝石細工のような植物だ
碑文は詩集『津軽野草図』より
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